生活

塾講師が体験したトラブル[生徒・学校の先生関連も]

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今回は、私が塾講師経験を通して出会った、つらい展開を迎えることになってしまった生徒についてお話したいと思います。

もちろん個人は特定できないように一部改変してお話しますが、個人を特定できるような情報以外はすべて実話です。

塾講師をしていると、こうした場面に直面することがごくまれにあります。特に、ありがたいことに私は本当にいろいろな境遇の生徒さんを担当させていただいているので、こうした場面に遭遇する機会も多いのです。

そんな中でも、一際目立つ結末を迎えた生徒のお話をしたいと思います。皆さんが「塾」という場所を考えるとき、そうでなくても生き方を考えるとき、ぜひ参考にしてみてください。

では、長い話が続きますが、最後までお付き合いをお願いいたします!

※実体験をありのままに書いているので短編小説の感覚で読んでいただけると幸いです。

非行に走った生徒のお話

これは、私が担当していた男子生徒Dのお話です。結論から言えば、彼は非行に走ってしまった生徒です。

Dは、私が担当に変わった当時、中学2年生でした。成績は学年でいえばちょうど真ん中くらい、部活では運動部、特に格闘技系に所属していました。もともと小学生のころからクラブで学んでいたこともあり、中学2年生にして、全国大会で表彰台に立つほどの実力の持ち主でした。特に講師の好き嫌いもなく、誰に対しても明るく接することができる、学校でも人気のある生徒でした。担当が私に代わってからも、他の生徒よりも格段に早く気安い関係になってくれた生徒です。

私が担当していた教科は数学でした。テスト直前で私が担当になり、そのテストの成績は50点ほどでした。他の教科と比べて、英語は好きでも成績が高いわけではなかったのです。その後私が担当した後のテストでは、いきなり80点を取ってきました。その後のテストでは90点、その後も90点と、かなり順調に成績を伸ばしていました。本当にありがたい話ですが、D自身、当時の教室長に「これからもあの先生が良い」と言ってくれており、保護者の方も「可能な限り今の先生にしてほしい。Dも本当に信頼しているみたいだし、成績も見違えるほど上がっている」とおっしゃっていたようなのです。学校での話もしてくれる、かわいい生徒でした。

転機は、中学3年生の夏休み前でした。1学期最後のテストの成績が、60点ほどまで落ちていたのです。成績だけ見れば急激な下降ですが、私は普段の会話と、授業の進行の中でなんとなくこの気配を感じていました。教室長にも、「最善を尽くすが、次のテストは成績が下がっていると思う」と報告していました。

もちろん授業の中での進行の問題もありましたが、何より長く担当した私だからこそ感じられる、違和感のようなものがあったのです。教室長はとても優秀な方だったため、同じような感覚を感じていたようでした。

しかし、我々は2人とも、「反抗期に差し掛かってきたのだろう。こちらはより一層ケアに努めるだけだ」としか考えていませんでした。

結果、我々の予感は的中しており、夏休み期間の夏期講習中、教室長から私に

「Dが深夜、学校に侵入して友達と遊んでおり、ちょっとした警察沙汰になった。警備会社が最初に駆け付けたが、あまりにもうるさく騒いでいたことで近所から警察に通報があったらしい」との報告がありました。

正直これを最初に聞いた時、私はそこまで重大な問題だとは感じていませんでした。もちろんこの時期に、進路にかかわるような大ごとを起こしているというのは大問題です。しかしそれ以前に、1人の人間としては、それを必要以上に糾弾することはしないでおこうと思っていたのです。正直そのくらいの年頃のこの行動はわからなくもないと思っていたし、何よりケンカなど、人に危害を加えるような行為はなかったようなのです。

この件に関しては、学校の恩情で記録には残さず、進路の選択肢を狭めない形で処理してもらうことになりました。そしてその件を聞いた次の日、私と教室長とDの3人で話と説教をし、もう二度とこんなことをしない、という約束をしました。

しかし、夏休みが明けてすぐ、今度は別の事件の報告がありました。

「Dが家で母親に暴力をふるった。母親はDに抵抗できず、別の部屋に逃げ込んで警察を呼ぶ事態になった」という物でした。

正直、私がこれを聞いた時の感情はあまり覚えていません。ただ、感情よりも先に「これは許してはいけない行為だ」という思考が働いていたのを覚えています。

またまた教室長と同意見だったため、2人でまたDと話をしようとしていましたが、その報告の後初めての授業の時、Dを連れてお父様がいらっしゃって、

「私が絞っておきましたので、塾のほうでの追及はしないでほしい。話が広まるのも困るし、もし同じことが起きたら、Dが毎日楽しみにしている塾も辞めると言っている。責任は自分がとる」とおっしゃっていました。

しかし最終的に、また同じ事態が起こり、Dは塾を去ってしまいました。

最後の授業はもちろん私が担当し、「塾はやめるけど先生にはまた会いに来るよ」と言ってくれましたが、結局再会はできていません。

私の対応がどこで間違えたのか、もっといい指導、もっといい関係はなかったのかと今でも自問自答しています。その後、教室長は「先生は全力を尽くしてくれた。教室長として、1人の人間としてお礼を言います。今回の件は私の責任です。ありがとうございました。」と声をかけてくれましたが、結局私は未だに「正しい対応」を考え続ける日々を送っています。

以上が、私が体験した「非行に走った生徒のお話」です。

学校の先生とのトラブルで、進路を断たれた生徒のお話

続いてのお話は、「学校の先生とのトラブルが原因で、希望していた進路を絶たれた生徒のお話」です。

この話は、塾が主体の話ではなく、あくまで生徒と学校の先生が主役です。そのため、直接塾が関与する要素は少ないです。しかし、客観的に見て、学生か社会人かを問わず、誰にでも起こり得るような話だと思っています。学生の皆さん、お子さんがいらっしゃる親御さん、そして教育関係者の方々は、ぜひ何かを考えるきっかけにしてみていただければと思います。

主役である生徒Oは、お世辞にも成績がいい生徒ではありませんでした。テストの点数はいつも30点を下回っており、宿題をやってくることも稀でした。こちらも中学3年生の男子でしたが、それでも塾にくるのをサボることはなく、欠席はありませんでした。授業の中でわからない箇所があれば癇癪を起こすこと以外は、はた目に見れば普通の生徒でした。

私はOが3年生に上がるタイミングで担当講師になりましたが、癇癪と宿題をしないこと以外は特に問題もなく、いわゆる「普通の生徒」でした。

しかし、そのOを目の敵にしていたのが、学校のクラスの担任で数学教師のAでした。

素行が悪いわけではなく、しかし勉強を全くせず提出物も出さない、おまけに学校の授業中でもわからない問題があると騒ぎだすOの扱いに困っていたようです。学校での様子は、同じクラスの生徒から聞いていましたが、塾での姿と大きくは変わらない様子だったようです。Aは数学の先生であり、最初はOの癇癪が起こると、わかるまで丁寧に授業をしていたようですが、3年の5月ごろには、もうOのことは放置して授業を進めていたようでした。「放っておくと騒ぎは収まるから、もうこれ以上わからない問題をOに解かせるのはやめよう」という判断だったのでしょう。

その状態がしばらく続き、受験が近づくと、徐々に塾での癇癪は収まっていきました。どうやらOの中でも受験に対する焦りが芽生え、「わからない問題に騒いでも仕方がない」と思い始めていたようです。

定期的にある保護者と教室長の面談で、教室長からその様子を説明すると、保護者の方が本当に安心した様子だった、と報告がありました。

塾では大人しくなったものの、依然として学校でのOの様子は変わらなかったようです。数学以外の先生、つまり担任以外の先生たちは、言ってしまえば自分の生徒ではないため、各授業では一応丁寧な対応をしていたようですが、反対にAは一貫してノーリアクションを貫いていたようでした。

難しい問題はOには振らない、提出物を出していなくても怒らない、癇癪を起こしても収まるのを待って無視して授業を進めるだけ、といった様子だったようです。

さらに時が進んで11月ごろ、Oは私に進路に関する相談をしてきました。

「もしかしたら大学に行きたいかもしれない」という、つぶやきに近いものでしたが、はっきり私に聞こえる声量で言っていたのです。私はこのチャンスを逃したらもうこの話題は無くなるかもしれないと思い、必死にその話を繋ぎました。「別に勉強が嫌いなんじゃなくて、わからない問題があるとイライラが収まらなくなるだけ。本当は勉強ができるようになりたいし、大学に行ってお母さんを喜ばせたい」というようなことを、ぽつりぽつりとこぼしてくれました。

私はすぐにこの話を教室長に持っていき、当時予定していた進路である工業高校から、急遽進学コースを用意している高校へ予定進路変更を行いました。親御さんへの相談は教室長に任せ、私はその日から授業内容を組みなおす作業を始めました。

親御さんはどうやらこのOの発言に喜んでいたようで、「本人が希望するならそれがいい。仮に落ちたとしても、滑り止めの高校に合格できれば最悪高卒にはなるから、本人の希望通りにサポートをお願いします」というのが、親御さんの意思だったようです。

12月の前半になると、Oの通っていた中学校では保護者を交えた、担任との三者面談が設定されていました。この面談は、実質最終的な進路決定の場であり、その場で決められない場合は冬休みが明けた後、家庭で相談したうえで学校に希望進路を報告するシステムです。もちろんその後にも変更は効きますが、勉強の内容や密度を考えると、これが実質的に最後の進路希望調査なのです。

Oは、12月半ばに三者面談がありました。お母さんとOの2人で学校へ行き、担任と話をする機会です。我々は、そこで担任と話して出した結論を基に、授業内容を改めて見直してから、冬休みに臨むつもりでした。

結論から言うと、Oは元の工業高校に進路を戻しました。理由は、「こんな様子では就職も危ういので、手に職をつけられる学校に行かせるべき。勉強はどうせしないので、大学進学を見据えた高校に行かせても無駄。現実を見た進路決定をしよう。普段の様子を書いた書類にもいい様子は一つも書けないので、○○工業高校でいいですね。」というAの言葉があったから、でした。

Oとお母さんは、あまりにもはっきりとOの夢を全否定されたことに憤慨して、Aと口論になりかけましたが、結局「勉強していないのだから仕方ない」と押し切られたそうです。冬休み明けの進路決定を待つこともなく、その場で最終進路希望調査書に記入させられていました。

私は教室長からの又聞きでしたが、あれほど怒っている教室長は、後にも先にも見たことがありませんでした。私も教室長も、「大学に行きたい」と言ってから、しっかり勉強し、癇癪も起こさなくなったOを見ていたため、まったく納得のいかない結果だったのです。

Oのお母さんからこの報告を受けたとき、教室長は「本当にそれでいいのか」という確認を何度もしていたようでした。しかし、お母さんは相当ショックを受けていたようで、「もう私はA先生に言い返す気力もありません。私の教育が悪かったので、仕方がありません。」と返したようです。

こうして、中学3年生のOの希望進路は、大人の事情に振り回されたまま閉ざされてしまいました。

しかし、その工業高校に進学した後も塾に通い続けたOは、何とか工学部のある4年制大学に進学しました。自分で勉強し、一般入試で大学に合格したのです。決して偏差値の高い大学ではありませんが、それでもOは当時抱いた夢を自力で叶えました。

Oやお母さんは、塾に感謝の言葉を残してくれましたが、私から見ればOが大人の圧力に負けずに頑張った、その結果でしかありませんでした。一度は余儀なくされた進路変更を、自分の力で、自分の望む方向に再び変えたのです。

以上が、「先生とのトラブルで進路を断たれた生徒のお話」です。

私は、このことの顛末を大学生活を通して見守りましたが、正直「人の悪意」のようなものを、大学生として過ごした時間の中で一番濃密に感じました。私が直接A先生にコンタクトをとったり、様子を見ることはできなかったうえ、学生や保護者の方からのお話を聞いただけに過ぎないため、正確な情報ではない可能性もあります。しかし、中学3年生の望みを、あんな言葉で捨ててしまう大人の姿に、吐き気を覚えたことをはっきりと覚えています。そして、Oの大学進学決定を聞いた時は、自分の就活が成功したときよりも達成感を覚えていました。

最後に

以上が、私が塾講師として経験した中でも、精神的に負担が大きかったお話になります。

はじめに書いた通り、私は幸い教室長から様々な事情を持った生徒さんを任されることが多いので、これ以外にもつらい経験はいくつもありました。しかし、進路にここまでダイレクトに反映される出来事に見舞われた生徒は他にそう多くありません。

もし、皆様がいろいろなことを考える上で、参考にしていただければ幸いです。そして、可能な限り多くの子供たちが、自分の夢に向かって進んでいけることを祈っています。

では、最後まで読んでいただきありがとうございました!

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